二つに折れる台が欲しい

 そんなことを鹿島錦を始めた当初から考えていました。だって持ち運ぶのに便利じゃないか。大正時代にはあったらしいよ。今の台と構造が違いますが。人間国宝でいらした古賀フミさんが愛用されていたのもこのタイプの台でしたね。

 大正時代は「あぐり」で通じたのに、なぜ今はほとんどの佐賀錦では「あばり(網針)」と呼ばれるようになったのか、その経緯が知りたくてたまらない。網用の針はかなり短いとだけ切実に訴えたい。あぐりの復権希望。

東京婦女会 編『佐賀錦製織法 : 美術工芸』,東京婦女会,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1182692 (参照 2024-07-04)

※祐徳神社所蔵の鹿島藩日記には鹿島錦創案コンビの一人、並木多仲の養父である並木六郎右衛門と、実父の久布白兼矩(読みは「かねのり」?)と思しき久布白三左衛門の名前がいたるところに出てきます。宝永5年=1708年の記録である5巻まではデジコレさんにありました。当初は鹿島錦の話題が出ていないかなあと思って調べていましたが、年代的にありえんかったよ。

※東京堂出版の「手芸の事典」によると、引箔に直接模様を描いてから裁断、平織りするものを「今様織り」というそうです。井上静子さん考案だとか。この本誤表記の部分がやたらと目立つんですよ。上下30cmを残して裁断とかしていたら織れるところないやないの。