「違う」のですよ、自分の中で

 私の私生活なんかほとんど知らない人から息抜きのために外で遊べ=飲み歩けと言われたり、たまたま観たオカリナコンクールの動画がクラシック系の曲ばかりだったり、どちらも私の中では「違う」のですね。単に自分が受け入れられないという程度の話なのですけど、半ば憤慨しながらそれぞれ私見を述べておきます。

 まず外で遊べ論ですが、別に嫌々鹿島錦を織っているわけではないというのが大前提としてあるので、そこをまず理解してほしい。人生には息抜きが必要だという意見には同意するにしても、だからこそ錦を織っているわけで。私にとっては物を創って何かを表現することこそが遊びであって、食べ歩き飲み歩きの類は、時間とお金の無駄でしかない。友人に付き合って食事に行くのも、単にその時だけは自分で料理を作らずに済むからというだけの理由。別に美味しい物を是が非でも食べたいわけではない。ですから、旅行中でもない限り、一人で外に食事になんて絶対行きません。自分で作るか、あるいは何か買ってくるかして、家で簡単に済ませます。ましてやそもそも酒の類は飲めないのに、どうして飲み歩きが楽しめると思うのか。飲まずに店をはしごするくらいならそこらを散歩した方が百倍まし。勘違いも甚だしい。織ることに何一つ悦びがないのであれば、鹿島錦保存会など早々に辞めていますよ、私の性格上。

 二つ目のオカリナコンクールの件。オカリナという楽器に何を求めるかというのは人それぞれです。ただ、構造がプリミティブであるという楽器の特性を鑑みるに、あまりにミスマッチじゃないですか、クラシックの多くの曲って。まあ中にはズキュンドキュンと胸を打つ組み合わせがあるにしても、「なんでこの曲をオカリナで吹こうと思った」と突っ込みたくて仕方がなくなる場合が圧倒的に多い。承認欲求か、まさか。もちろんコンクールで上位入賞する方ばかりですから、演奏は上手なんですよ。表向きは。でもまるで魂に響かない。なんとなれば、音がオカリナではないような気がする。古式ゆかしき石笛にも似た深遠なシャーマニズム性をまるで感じない。無機質で湿潤性に欠ける、ただ忙しいだけの音の羅列を誇らしげに披露されても、辟易するばかり。

 鹿島錦も同じかな。織る過程で経紙と絹糸両方がこの世に生み出された時から放つ生得的な魅力をどれだけ損なわずにいられるか。私にとってはそれは模様織でも平織りでもなく綾織ということになりますので、やはり綾織の世界で精進するしかない。

 今日はいろいろやって疲れました。明日もマリトピア行きのため、もう寝ます。