可視化と言語化についてつらつらと考える

 昨日は大先生の一周忌ということで、受診の後鹿島錦に時間を割こうと思っていたのですが、あにはからんや、十時前に訪院したのに、帰宅したのは午後三時過ぎ。正月明けとはいえ人はまばらで、なんでこんなに待たされるんだろうと訝しく思っておりましたら、発熱外来でインフルとコロナとそれぞれ見つかったということで、裏ではてんやわんやだったみたいです。

 帰宅後ひとまず錦を織って、仮眠して、犬の散歩や入浴その他の雑事を済ませてから再度織り台の前に座り、久々にある程度の時間を割いて織ってみました。肩の痛みはまだ残っていますが、激しく痛むのは、主に朝の起きがけと、日中何かの拍子に大きく動かした時くらい。続けて織るにしても、平織り以外は支障はなさそうです。

 久しぶりにまとまった時間を織り台と格闘して過ごして、錦はやはり綺麗だなあと再認識。編み物も楽しいのですが、まだまだ上手に編めないというフラストレーションも多分にあり、錦のようにはいかないかな。錦が巧いという意味ではないですよ。錦の方はもう居直っておりますので、下手でもOKということで。

 座って静かに織っていると、その時々の心が可視化されるような気がします。苛立ちも憤りも、それから静寂な心持も、すぐに綾の上に現れる。大先生は織りなす綾の上に、自分の人生を見出していたのかもしれないと、そんなことを考えてしばらく織って――日付が変わると同時に編物で夜更かし( *´艸`)

※かぎ針で一枚モチーフを編んでから錦を織り、最後にストレッチ編みに取り組むのがよろしかろう。必要な時は合間にマクラメ。