ミカラ・ペトリとファビオ・ガッリアーニ

 ミカラ・ペトリの「悪魔のトリル」と、ファビオ・ガッリアーニの「おしゃべり娘」は、一生吹ける気がしない。

 どうしよう。大先生みたいに織れる日が来るとも思えない。ミカラ・ペトリにあやかってミカラ・デタ・サヴィとかに改名したら何か極められるようになるかな。ミドルネームも欲しいし。ちなみに小学生の時に学ぶソプラノリコーダーより音が高いのがソプラニーノで、さらにその上がクライネソプラニーノですよ。リコーダーはバロック楽器の花形と言われるのに、日本では子どものおもちゃ扱いされているのが納得いかない。鹿島錦の辿ってきた不遇の道筋にも似て――はいないか。YAMAHAのお手頃木製リコーダーは、全然吹いていませんが、持っているだけで幸せ。

しょうことなしに自己検査

 註・以下の記事、厳密には「その時点での検査が終わった」だけで、「診断」にはならないので注意。診断はお医者様の仕事なり。

 濃厚接触四日目。かかりつけ医のところで抗原検査をしてもらおうと朝から電話をかけていましたが、なかなかつながらず、ようやくつながったと思ったら、「濃厚接触者でも、基礎疾患があっても、症状が無ければ検査が出来ない」と事務のおばちゃんに言われて、ぐぬぬぬとなりながらぢっと堪える我慢の子。自己診断で出来るのかなあ、でもドラッグストアで研究用キットを買って検査をしても、どのみち陽性なら医療用キットで再検査をしないといけないし――と思案して、いろいろ検索。出てきた結果は

・佐賀県の無料検査は濃厚接触者が対象ではない
・保健所から配布される濃厚接触向け医療用抗原検査キットは、後期高齢者や基礎疾患があると申請できない

 ということで、どん詰まり。仕方なく職場の看護師――てっきり陽性だと勘違いしていたけど、今のところは陰性らしい――にお願いしたら、今は一人しか陰性の看護師がいないので、出来るだけリスクは減らしたいから自分でしてほしいと言われ、( ゚Д゚)となりながらも、渋々了解。玄関に出してもらった検査キットを使って車の中で自己採取で検査しました。一応手順は知っていたけど、自分で鼻の奥にまでスワブを挿入するのが不快でたまらない。でも、検体採取が不十分だと検査できないということで、涙をこぼしながら(比喩ではない)鼻の奥をぐりぐり拭い、液に浸して検査キットに垂らして15分待って……

 今回は陰性に該当するという検査結果が出ました。偽陰性の可能性もありますけどね。ちなみにこれは保健所から頂いた医療用のキット。今は以前と違い、隔離解除に医師の証明は要らないそうですが、一般職ではなく高齢者と接する仕事なので、やはり不安が大きいわけで、検査をしておくにこしたことはないかなと。

 朝から靴を左右間違えて履いたりするくらいには慌てておりましたけど、これで少しは落ち着いたかも。家庭内感染しないように母の隔離を続けつつ、仕事に復帰することにします。数日は誰とも接触せずに済む場所で書類仕事。

※液を垂らしすぎて撮影前にこっそりティッシュで吸い取ったなんて内緒。

※検体の量が検査に充分であることを示すのがCの線。ですからここが表示されない場合、検査そのものが無効。その場で再検査になります。Cのラインが出ていれば、さらにTに線が出ているかどうかで、感染の有無をお医者様が判断されます。線がうっすらとでも出ていれば陽性。既定の検査時間を過ぎても、Cの線だけでTの線が出なければ、検査結果上は陰性だそうです。もちろん偽陰性の可能性もあるので、「遊ぶでー(‘ω’)ノ」とはっちゃけちゃダメ。職場で複数の検査キットを見ましたけど、どれもCとTですね。当たり前か。

今のところ症状は出ず

 仕事は強制的に休まされているのに全然落ち着いて織れねえ。

 濃厚接触者生活三日目。今のところ症状は出ず。時々鼻水が出るとはいえ、花粉も飛んでいるようなので、正直区別がつかない。明日か明後日かかりつけ医にお願いして、抗原検査をしてもらうようにします。母は13日に隔離解除の予定。症状が出始めた頃は寒気や頭痛等あったようですが、昨日からだいぶ楽になったとのこと。喉は、とりあえず龍角散のブルーベリー味のシュガーレスのど飴を舐めさせていることもあり、特に痛みは出ていないみたい。嗅覚や味覚の消失もなく、出した食事は毎回完食していますので、多分もう大丈夫かな。

 とにかく基礎疾患持ちの後期高齢者、オミクロン対応ワクチン未接種というトリプルコンボのハイリスク群だったため、初日と二日目は夜中に悪化してもすぐ対応できるように、常夜灯を点けて普段着のまま床にはいっていましたが、昨日から普通に就寝時に着るようにしているくたびれ系ナイトウェアを着て寝ています。イェア。

 緊急事態ということもあり、ありがたいことに町内の親戚がいろいろとサポートしてくれています。念のためにと隔離前に買いだめしていた食材でいろいろ作ってはいますが、今日はカレーとサラダを玄関まで届けてもらいました。まさかのUberみたい。新鮮な野菜はとりわけえがたいでござる。先日書いた通り、増築して、浴室以外は二世帯住宅と化している僻地の家に住んでいるおかげで、隔離と衛生管理がしやすいので、割と対処が楽な方だとは思いますが、それでも毎回食事を準備して洗い物をして洗濯をしてと、面倒なことが多いですからね。これがもし住宅密集地の賃貸のアパート住まいとかだったら、どう生活を維持しながら感染予防すればいいかわからない。一人暮らしで自炊派&リモートワークなら、密集地であっても感染リスクはある程度減らせますが、同居家族がいて、頻繁に外出する必要があるとしたら、まさに無理ゲ―。そのような状況で日々感染予防に心を砕かれている皆さんは、毎日大変だろうなと頭が下がります。

 コロナ禍はよ終われ。

※酸素浴が流行ったころに購入した家庭用の高濃度酸素吸入器――5万くらいした――を棄てずにとっています。購入したのは何年前だろうと思って調べたら、十年くらい前でした。大叔母が時々全身がむくんで肺に水が溜まっていたのですけど、苦しそうな時に、病院に連れていく準備を済ませるまでの間だけでも使ったら、SPO2が結構上がりましたので、確かに効果があるみたい。今回もし母のSPO2が低下したら使おうと準備していましたが、使わずに済んでよかった。

気が付けば4kg痩せて

 自作のチョコレート炒りぬかの力を借りつつ、もともと同年代メンズの半分くらいだった食事量をさらに半分にまで減らして、一月以上経過。順調に痩せています。というか、痩せる薬が二種類出されている上、毎日犬の散歩と踏み台昇降を行い、さらに管理栄養士さんの助言を参考にしつつ、カロリー&糖質制限しているとなれば、痩せない方がおかしい。甘い物に目がないため、多分以前はお菓子を同年代メンズの三倍くらい食べていたと思いますが、それは都合により棚上げ。もっとも、五十を目前にしながら一月強で4kg減は、ちょっとペースが早すぎるかもしれない。

 節気の計算などでしばしばお世話になっているCASIOさんによると、身長170cmの私の適正体重は63.58kgだそうなので、後4kgくらいか。

 不詳私の体重遍歴を誰が得するのかわからぬままにまとめますと、身長は高校時代から変わらないにも関わらず、18歳時点で55kgほどだった体重が、一人暮らしをしていた7年ほどでMax78kgにまで肥大。どんだけ。当時から一通り料理は出来ましたけれど、自炊が面倒な時は揚げ物などの総菜を買ったりしていたし、やはりお菓子がやめられず……。ただ、どうもそれ以上は太れない体質らしくて、どれだけ食べても80kg台にはなりませんでした。その代わり身体がボロボロに。あ、持病の慢性腎炎は子どもの頃からですよ。某町立病院のやぶ医者の誤診で大人になるまで放置されましたけど。知っていたらもっと健康に気を遣えたかもしれない。

 介護保険の開始年度に地元に戻った後、旧知の人に会うたびに「( ゚Д゚)」と絶句されるのがいささかしんどく、一念発起で2ヵ月かけて23kg痩せたのが27の時だったかな。あの時は壮絶な食事制限をしましたのでみるみる痩せていきましたが、こちらも体を壊してやめました。素人判断で筋肉量も落ちたのでしょうね、一年もしない間にリバウンドして70kg越えに。その後はもうダイエットはこりごりと好きなものを食べていましたけど、再度76kgほどになり、健診で指摘を受け続け、重い腰を上げて現在のかかりつけ医のところを受診。もう十年近く受診を続けていることになるのか。途中経過がよくなかったこともあり、七年前くらいに、今ではやらなければよかったと後悔している一日一食健康法などを試して65kg台になったのも、今となっては懐かしい。鹿島錦保存会に入会したのはその直後頃。内臓脂肪が減ることで腎機能はじめ諸々の数値は改善しましたが、どうも私には合わなかったようなのでこちらも途中でやめることにしました。

 今はさすがにお菓子食べ放題の生活は自粛しているため、72kgを越えることはなくなりましたけど、今度は逆に加齢でさらに代謝が落ちて、70kgを切ることもなくなったんですよね。だから久しぶりに痩せてきて嬉しい。数年越しの67kg台を満喫しております。適正体重まで落とせたら、月に一度か二度くらいはケーキの日を設けよう。

※料理は出来ると言い張っているくせに、魚は切り身専門。生魚は絶対さばきたくない。エラを取るとか無理。自分で釣るとかまずもってありえない。

あわただしい週末でした

 週末に鶴を折って、週明けに焼く予定だったんですが、後回しにすることに。実は母が新型コロナの濃厚接触者→陽性確診者となりまして。昨日は母の、今日は父の検査のため、かかりつけ医のところまで窓を全開にした状態で往復した次第です。寒かったよう。嬉野まで窓全開で運転するのはすこぶる寒かったよう。

 不幸中の幸いで父は陰性。ただ「百パーセント安全なわけではないので気を付けて」とのことでした。

 私もいきおい濃厚接触者ですが、私の場合は、明日くらいまでに症状が出なければ多分大丈夫なので、明後日以降に職場の医療用抗原検査キットを使って、看護師に検査してもらう予定です。なんせ後十年ちょいで還暦の、基礎疾患複数持ちですからね。不顕性感染はまずありえない。何かしら症状が出るはずです。

 母の体調ですが、発症当日から翌日は寒気がひどくて頭痛もしたらしいです。今日は頭痛も治まり、咳とのどの痛みだけになったとのこと。ワクチンは四回接種済みとはいえ、介護事業所勤務・後期高齢者・基礎疾患持ちのトリプルコンボで、そもそもが優先接種の中でも上位の方。四回目までは打つのが早すぎてオミクロン対応ではありませんでした。本来ならすでに接種していておかしくないはずの、五回目のオミクロン対応ワクチンを遅らせていていたのが、痛恨の極み。とはいえ、心配していたほどには症状はひどくないようで、毎回食事を完食しております。のどの痛みもそうひどくない模様。胃腸も特には影響ないようですので、今はおかゆ+煮野菜などのおかず+ヨーグルトや卵という構成で渡しています。やはり基本はおかゆさん。そういえば、大阪だったかな、コロナ療養中で喉が痛くて苦しんでいる人たちに、とんかつ弁当を配った業者がいましたね。一体全体何考えてんだか。

※消毒液はいつも持ち歩いていますが、ここ数日は首から錦で飾った消毒ボトルをぶら下げて、筋金入りの消毒星人と化しています。おそらく一日五十回以上は、シュッシュもみもみしていますよ。主婦湿疹対策として時々馬油を塗りながら。「家庭内隔離は大変だねえ」とか言われたりしますけど、実は我が家は端と端ではコードレスホンの子機同士で通話できないくらいには長い作り(これは土壁ということもある)。母はもともと西の端の離れに一人気楽に寝起きしておりまして、普段は食事の時くらいしか一緒には過ごさないので、隔離自体はまるで苦になりません。ご飯を作って運ぶのが面倒なくらい。祖母達が元気だったころに二世帯住宅風に増築した場所なので、トイレと洗面所付きですしね。もっとも、ガスは外しているので料理は出来ず。オーブンやレンジくらい置くべきかもしれません。ちなみにキッチンは私が占領して、おりがみ陶芸専用の作業スペースとして使っています。田舎の古い家なればこそ庶民にも出来る業。

※冬場は馬油とかワセリンとかをこまめに塗らないと、すぐ主婦湿疹になるんですよ。あのかゆみは物理的に辛い。かゆみの後に皮膚がボロボロになるのも心理的に辛い。

※医師が不在の介護事業所で出来るのは検査まで。診断自体は、お医者様にお願いしないといけないことになっています。検査キットが医療用であり、看護師が検体を採取した場合は再検査は不要で、写真でも診断してもらえるとのこと。やっぱね、プロに任せなきゃダメなんだわ。素人考えで動くと逆に余計な負担が増えるんだわ。

先に進むのです

「錦を織るとね、その前にどんな嫌な思いをしていても、それがすーっと消えていくの」ともおっしゃったのですよ、大先生。「夕方から織り始めて、気づけば朝。家族から世話された(方言で心配の意)」「いつ織り終えてもいいように、同時に五台くらい経紙を立てているの」など、ヨシノ節の数々を心に刻みながら、私も前に進みます。昨日はお通夜の後で、今までになくまとめて織りました。肩の調子がよくなればもっとたくさん織れるのにと思いつつ。

 樋口先生が亡くなられても、まだ鹿島錦保存会内には(勝手に作った)落語部があるので、そちらの方も頑張らないと。

 そういうわけでメッシュワークのプランの続き。上品に仕上げるなら出来るだけ芯材は薄い方がいい。でもそうすると強度の面で不安があるということで、さてどうしようと思案して、以前観た近江一関張の動画ことを思い出しました。

 そこからハイテンションな一関張の作り方に飛んで――

 今はこういう天真爛漫な方の動画ばかりを観ていたい。

 もしかしたらこの技法を流用すれば、史上最高強度の鹿島錦のバッグが仕立てられるかもしれません。武器にも出来るくらいの。誰と戦うかは不明ながら。一関張の場合は、貼り重ねた和紙を通して表現される竹籠などの目の風合いを楽しむという側面もあるようですが、鹿島錦で作る時はそんな凹凸は邪魔にしかならないはずなので、化粧土のように何かで加工したほうがいいのかも。その上に和紙を重ね貼りして、さらに錦のメッシュ。

 土台に関しては、大分で勉強できるとはいえ、さすがに今から竹工芸を基礎から学ぶのは無理があるので、近江一関張のように、エコクラフトなどを使ったペーパーワークで。いっそあんでるせん手芸でもいいかもしれない。そういえば、大先生と同い年で性格もそっくりだった大叔母は、若い頃は竹籠を作る職人だったので、すごく綺麗に作っていたんですよね、エコクラフトのバッグ。手芸作品を作る傍ら、晩年まで作業にいそしんでいましたが、他人様に差し上げることが多くて、うちには残っていません。口惜しや。

 鹿島錦でバッグを作るとなると、貼り込みやカルトナージュがまず思い浮かびますが、意外にいいかもしれない、なんちゃって一関張とメッシュワークの組み合わせ。本体は平織りのメッシュワークで、蓋――というか、被せというか――は綾織を貼って。小さい物だと多分カルトナージュの方が綺麗だし早いので、いろいろと使い分けるのが理想。

 週末は久しぶりに白い陶芸紙で鶴を作ります。焼き上げまで済んだら、以前佐賀新聞社に確認して使用許可をもらった大先生の写真を片翼にデコパージュ。もう片方の翼には伝統図案の鹿島錦を貼って、オブジェを制作予定。春の作品展に出そう。

お通夜から帰宅

 先生の動画を何度も何度も繰り返し観ています。私が入会した時、とても喜んでくださったのに、期待に応えるようなことをいまだ何も成しえていないのが、正直辛いやら悔しいやら。樋口ヨシノを知る世代と、樋口ヨシノを知らない世代、今後ははっきり分かれてしまうのもたまらなく寂しいです。

大先生との約束

 鹿島錦の第一人者で、鹿島錦保存会を設立当初から牽引されてきた大先生こと樋口ヨシノ先生が、昨日帰幽されました。詳細が不明なこともあり、まだ心が乱れていて、手を休めると自然に涙がこぼれる始末。私が樋口先生と関わることが出来たのは、百歳を越えられてからの短い間だけですが、それでも鹿島錦教室では、先生の指定席の近くに座って織っていたおかげで、いろいろな話をうかがうことが出来ました。材料を確保するために京都に出向いて職人さんに直談判した話、仕立てをしていて刃物でけがをした話、織り台を作る過程で大工さんと面倒なやり取りをくりかえした話、織り始めた当初に今は雲散霧消してしまった他のグループから「鹿島の人でないのに鹿島錦を織って」と陰口をたたかれた話――時には笑い、時には憤りながら、感情豊かに話してくださいました。

 そんな大先生と交わした約束がいくつかあります。

「将来必ず鹿島錦の指導者になること」
「男性の織り手をもっと増やすこと」
「地元の(鹿島以外の)文化祭にも出品し、鹿島錦を広めること」
「人間国宝に選ばれるまで精進を続けること」

 冗談交じりだった最後の一つは別として、先の三つは手を伸ばせば届きます。親しんだ人の死に囚われがちな私、これから一生、織り台に向かうたびに、大先生のことを思い出すに相違ない。いつの日か彼岸で再会できたときに、「帯締めどころか帯も細糸で自由自在に織れるようになりました」くらいのことは言いたいかな。

 末端会員の私にできることは、樋口ヨシノという、鹿島錦に魅せられ、鹿島錦の織り手としての生き方を貫いた人がいたことを忘れず織り続け、同時に後に続く世代に、大先生が愛してやまなかった鹿島錦について、正しく伝えていくことくらい。大先生との四つの約束のうち、実現可能な三つを果たすまでは、先生のおっしゃった「一生勉強」を続けていくつもりです。

 仕事の都合で明後日の葬儀には出席できないため、明日のお通夜でお礼とお別れを申し上げ、それから「先生との約束を無事果たせたら、あのエイブルの廊下中に響き渡る大きな声で褒めてくださいね」とお願いするつもりです。

※マスクがずれても気にせず&「一言どうぞ」と言われたのにもかかわらず、延々しゃべり続ける大先生が、可愛らしくて仕方ない。新型コロナのパンデミックが無ければ、錦という生きがいを通じて、もっと長生きされていたはずと確信しています。改めてご冥福をお祈り申し上げます。先生、私、もっともっと織りと仕立ての練習をして、扇子入れを作りまくって、噺家の皆さんに贈って、鹿島錦を広めますね。

緊急連絡がまわってきました

 昨日、大先生はお元気かなあとつらつら考えながらブログ記事をアップしましたが、その時はまさか亡くなられるとは予想だにしませんでした。てっきり施設でお元気でいらっしゃるとばかり――

 まだ気が動転していて落ち着かないのですけど、今日はとりあえず自分の受診を済ませてきます。

 おいおい先生の想い出をしたためられるといいのですが、今はまだ心の中が取っ散らかっていて、何をすればいいのやら。まずもってご冥福を。